2013年、本格的に、日本人ラグビー選手の海外挑戦時代が到来した。
スーパーラグビーで田中史朗、堀江翔太がプレー。その経験は、6月の日本代表ウェールズ撃破に結実した。彼らのあとを追うように、山田章仁が、藤田慶和が、夢を追って真夏の日本から真冬のNZへ渡った。松島幸太朗は、18歳の誕生日を前に渡った南アフリカで、すでに3度目のシーズンを迎えている。
しかし、日本人の海外挑戦は今、突然始まったわけではない。国内シーズンの戦いに明け暮れる大学ラグビーに身を置く選手や指導者が、目標を見定めきれずにいた2000年代にも、世界への視線を持ち続けた選手たちはいた。世界へ挑む者、見送る者。何度でも挑む者……若き日の、いくつもの決断が交錯した時代に、タイムトラベル!
代表のジャージーへの憧れが強くなった—畠山健介
今から4年前の冬、1人の大柄な少年が、日本ラグビーの歴史に残る大きな決断を下した。2003年12月14日から20日まで、マレーシアで開かれたラグビーのアジアユース選手権のU19日本代表に、仙台育英高の主将だった畠山健介は、花園の全国高校大会に出場するチームから史上初めて参加したのだ。
決断の背中を押したのは、その2ヵ月前に豪州のW杯で『ブレイブ・ブロッサムズ』と称賛された日本代表の奮闘だった。
「あれを見て、代表のジャージーへの憧れが強くなったんです。育英(チーム)も大切だけど、監督も『行ってこい』と言ってくれたし、自分自身も上を目指したい」
マレーシアへの出発を前に、18歳の畠山は、頬を紅潮させてそう言った。
アジアユースは、日本ラグビーにとって鬼門だった。出場資格が日本の年度ではなく年で区切られているため、選考対象は高校生と早生まれの大学1年生になるが、開催されるのは毎年12月。国内ラグビーのクライマックスを控えた強豪チームは選手を供出しにくい。それゆえU19日本代表は、花園予選で敗退したチームの高校生と、まだレギュラーになっていない早生まれの大学1年生で構成されるのが常だった。